生実神社詳細
字町並みにあり、もとは御霊神社という。祭神は崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、吉備大神、
橘逸勢、文室宮田丸、火雷天神の八霊である。この八霊はいずれも朝廷から謀叛の疑うをかけられ、
滅んだ怨霊で、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田丸を流刑あるいは征討されて除く五霊は桓武天皇に関係
がある怨霊である。この地は北小弓城の一廓で、大手口からの通路にあたる。創建は不明であるが、
中世千葉氏の家臣原氏の建立と推定される。江戸時代の生実藩陣屋東隣りに位置する。宝永四年
(1707)4代目藩主森川俊胤が祈願し、同七年に本社、拝殿、幣殿を造営し、以来森川氏の崇敬する
ところとなった。社殿は寛保四年(1744)、安政七年(1860)に再建、造営している。正徳四年(1714)
同藩主は寺社奉行から若年寄に昇進したが、当社へ鳥居を寄進し、翌年扁額を掛けている。石鳥居2基は、
文化二年(1805)と三年に氏子や生実領内地廻り村々の寄進による。当社の奉射祭は、中里、上町(上宿)
の氏子達により毎年正月十五日に行われてきた。
「奉射祭当番宿覚帳」は、文化元年(1804)に古帳を写し、さらに現在まで書き継いでいるのであるが、
それには寛文十三年(1673)から連綿と祭の参加者名が記載されている。近代になると村内の各組毎に
奉射が行われ、神主が各年番の宿をまわり御幣を奉じ祈祷した。宿では祭壇を設けて神号の軸を掲げ
お供物を供え、祈祷後に組内の全戸で会食をした。
当社の祭礼は陰暦九月十四、五日の両日であったが、近代になって十月十六,七日となり、現在は
十月十日に定められていたが、平成十二年より十月第二月曜日(体育日)の前日の日曜日となった。
宵宮には、湯立という湯花進献式が執行される。正徳元年(1711)九月三・四日の遷宮式挙行の時、湯立神楽を
奉納しているので、古くから行われていたのであろう。湯立はもともとは探湯(くがだち)という古代裁判の方法のひとつ
である。式は午後7時ごろから神主、氏子惣代、各組の世話役が神社に集まって行なう。まず湯立の釜を社前に用意する。
口径一尺六寸五分の二斗釜を、八寸角の鉄棒三本を地面に刺して作った五徳の上に置き、湯を沸かす。
神主は熊笹12〜3本を束ねて二把作り、白紙を細かく切り三宝に山盛りにし、さらに麻を細かく切って混ぜ、
この二品を神前に供えて祈祷をする。それから湯の釜の前で、笹を両手に持って祈祷をしながら湯を掻きまわし、
笹を振りかざし終わると産宝の紙片を散華して式は終了する。この湯を目に付けると眼病が治るという伝えがある。
明治4年に小字中里、町並、堀井戸、松原、中宿、加藤曲輪、下宿、横宿、坂下、木戸下、横須賀、柏崎前、風呂口、
橋戸、旧邸、出戸、鎌取場の305戸の鎮守と改め、明治43年10月1日、社号を生実神社と改称した。
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