威光院

重俊院(森川累代の墓の西側にあり)
字柏崎にあって、真言宗豊山派の市原市菊間の印内山千光院の末寺であった。
創建由緒とも不明であるが、もとは字町並の通称御茶屋にあり、
生実藩主森川氏(寛永4年=1627入封)が字柏崎台に祈願所八幡社を歓請し
その真下の字柏崎前に別当寺として寺を配置し柏崎山威光院としたといわれている。
元来の寺号は華輪山満勝寺威光院という。寛永4年(1751)ごろの北生実村絵図には
八幡社の鳥居のうちに本堂は東向き、庫裏は北向きに描かれている。
そこで文化2年(1805)に威光院第6世の恵興は、本堂と庫裏を日当りがよいように
南向きに引きなおした。同8年には領主のほか信徒によって八幡宮へ、石造の鳥居・
灯籠・水鉢・および石階段や石橋や石垣を寄進し、参道もすべて南向きに付け替えている
明治元年神仏分離の際、当院は廃され、歴代住職の墓碑や檀家の墓、弘法大師の像は
重俊院へ、本尊仏や什物は平山町の東光院へ移された。明治5年になると堂字は
小学校に使用され、のち廃棄されたものである。
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