北生実村・浜野村・村田村入会浦絵図江戸時代後期(塩田町 田村喜久雄家所蔵)
北生実(新田部分=現塩田町)・浜野・村田各村の地先海面は、田肥として重要なキサゴなどの
貝類採取の好適地であった。同じ生実藩領に属するこの3か村は、遅くとも17世紀中頃から地先を
「三ヶ村入会」とし、周辺浦付村々との間で採取権をめぐる争いが生じると、村落間の共同の
交渉による合意や領主の裁定によって調整を図ってきた。上図もそうした合意に際し3か村入会の
範囲を表示する目的で作成されたものと考えられる。入会権主張の重要な根拠となる海岸部分の
村領域が色分けされ、各村はおおむね川を境界としている。その上で、曽我野村・北生実村境の
坪川河口から「沖ノ瀬きわ(際)」まで795間、村田村・八幡村境の村田川河口から同じく660間を
見通し、この両線に囲まれた海域を図示している。この範囲は近代の生実浜野漁業組合専用漁業
魚場の基礎ともなったと思われる。
なお上図には、海域境界を示す境杭等のほかに、交通標識である「通船目印」杭や船の通る水路=澪
も表記されている。この海域は、浜野村にあった生実藩米蔵の江戸廻米など、物資輸送の上でも重要な
場所であった。

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