生実浦周辺の地形図1882(明治15)年3月測図 国土地理院所蔵
ほぼ海岸に沿って南北に走る道路(房総往還)に面していくつかの集落がみえる。このうち曽我
野村と浜野村との中間に位置する集落は、北から生実新田.塩田と呼ばれ、行政的には北生実
村の中に含まれていたが、独立性の強い沿岸集落であった。またこの図では、沖から浜野村や
曽我野村へ向けて、遠浅の海岸に船を乗り入れる為に掘られた澪(みお)が長く伸びているのが
眼を引く。近世以降、鉄道が整備される明治中期までの間、浜野・曽我野からは江戸・東京など
に向けて盛んに船が往復し、両地は房総半島各地の物資が集散するターミナルとして賑わいを
みせた。一般の漁船よりも大型の五大力船が、あるいは江戸の流行をいち早く取り入れた日用品
を積み、あるいは房総産の米や魚肥を満載して、この澪を行き来していたのである。

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