生実城略年表
小弓城
1126大治元年 千葉常重 本拠を大椎城から猪鼻城に移す。この頃、常重の
叔父常房の次子(原四郎)生實に拠る。
1394応永年間 千葉介満胤の庶子、原四郎胤高が小弓城に入り、原氏の居
城の一つとなる。
1455康正元年 千葉市の内紛で、原胤房が馬加安胤とともに千葉・猪鼻城
を攻め落とし、安胤を千葉氏の宗主に立てる。
その後、原氏は千葉氏の宿老としてその勢力は強大となり、
上総真里谷城・武田信保と所領を争う。
1509永正6年連歌師柴屋軒宋長が招かれ、原胤隆と連歌に興じている。
子弓御所
1517永正14年 失地回復を願う武田氏は、古河公方・足利高基の弟、義明
を主将として迎え、上総・武田氏、安房・里見氏同盟軍が小
弓城を攻めおとす。
義明は入城して小弓御所・小弓公方と称し、やがて関東の
覇権をうかがう勢力となる。
1538天文7年 国府台合戦(第一次)
武蔵・相模の北条氏と雌雄を決するため、義明・武田・里見
軍は市川国府台に出陣したが、北条氏に破れ、義明は打ち
死。
北条方に属した、旧城主・原胤清が小弓に復帰した。
北小弓城(生実城)
1539天文8年 原胤清・小弓城の北方に北小弓城(生実城)を築く。
この時、北条氏は川越城主北条綱成に有吉城を築かせて
いる。
1561永禄4年 里見の重巨正木時茂が佐倉・臼井各城とともに北小弓城も
破る。
1564永禄7年 国府台合戦(第2次)
北条氏康は国府台で里見軍を打ち破り、久留里まで攻め
下る。原胤貞は千葉氏富胤と臼井城の正木勢を攻め、再び
臼井・小弓に復帰した。
1566永禄9年 関東を南下する上杉謙信軍に呼応して、里見の正木時茂は
曽我野で原胤栄勢を破り、臼井に迫ったが、千葉氏は善戦し、
上杉・里見勢を退陣させた。
1571元亀2年里見軍に攻められて、原胤栄は臼井城にうつる。
1590天正18年 豊臣秀吉の小田原攻め
北条氏とともに房総の諸豪族は滅亡する。里見は豊臣方に
つき、関八州は徳川家康に分与された。
この12月、原胤栄は徳川家臣・酒井家次と野田十文字
野で戦い戦死。家康、生実藩5000石を西郷家員に文封する。
            (西郷家は秀忠の正母お愛の方の実家)
幕領
1620元和6年 里見氏の鳥取移封の6年後、西郷家が安房・東条に移封さ
れ、生実は幕府の直轄領となる。
1622元和8年草苅堰完成。
生実藩
1627寛永4年 森川出羽守重俊が生実藩一万石の領主として移封され、北
生実城の一郭に陣屋を構える。(後世、字旧邸とよばれる。)
1632寛永9年徳川秀忠の逝去に際し、重俊殉死。この翌年重俊院創建か?
1717宝永3年 四代目藩主森川俊胤が生実神社で祈願する。
この年の12月、富士山が大噴火を起こし、大晦日までの約
2週間、灰黒色の火山灰が千葉地方にまで降下し、被害を
あたえた。
1721宝永7年生実神社本社・拝殿等の造営。
明治維新
1868明治元年 3月4日藩主、江戸より生実に移る。4月1日京都参内。
8月4日上総望陀郡に出兵。
1869明治2年3月10日版籍奉還。6月24日藩主俊方、生実藩知事就任。
1871明治4年 7月15日藩知事免。生実藩廃止、生実県となる。俊方、
東京へ引き上げる。11月14日生実県は印旛郡に統合される。

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