生実年表
西暦
年号
      事                 項
285
古墳時代
下海上、印波菊麻に国造を置く(生浜地方は菊麻の管下であった)。
千葉国造は設置の時代不明。   (読史備考)
672
白鳳1
村田部落すでに成る。里戸14ありという。(浜野、村田の間に条理制の班田
の跡あり)               (村田村誌)
1004〜
1011
寛弘年中
源頼光上総国へ赴任の途次八剱神社に参詣し大弓を奉納する。(社伝)
1020
寛仁4
9−15菅原孝標の女「いかた」に宿る。   (更科日)
1395
応永2
原胤高小弓城に居り柏崎に宗徳寺を建立。
1426
応永33
11−15 原胤高歿す。法号広徳院報恩裕盛なり。
1451
宝徳3
小弓城主原胤房私戦のため、胤継小弓城に居る。 (千葉大系図)
1454
享徳3
3−20 原胤房千葉介胤直を千葉城に攻め千葉城、妙見社、大日寺と
共に千葉城下町は灰燼に帰す
1454
享徳3
8−15 千葉胤直原胤房に志摩城(現香取郡多古町)を攻められ東
覚院にて自刃する。  (千葉実録)
1469
文明1
日秦上人浜村に如意山本行寺を創建す。七里法華の根本寺。
1473
文明5
日泰上人小弓村に本満寺を開基創建す。これに先き立ち生中山妙印寺
の再建あり。
1479
文明11
原胤房歿す。法号昇覚。
1488
長享2
土気城主酒井定隆領内の寺院に日蓮宗に改宗を命ず。
1506
永正3
1−19 七里法華の開祖日泰浜村本行寺にて入寂年75才。
1606
永正3
村田村の泉福寺創建す。日眼上人開基なり。
1509
永正6
11 駿河の連歌師宗長小弓城主原宮少輔胤隆の館に来る。「東路のつと」
を著す。本行寺にも遊ぶ。(東路のつと)
1517
永正14
10−15足利義明真里谷城武田三河守を援け、原胤隆を攻め小弓城を
奪いここに居城し小弓御所と称す。  (房総里見氏の研究)
1538
天文7
国府台合戦で足利義明敗死す。里見氏敗走の途次子弓御所に立ち寄り
義明の遺小孤を伴い城を焼いて房州へ引き上げる。原胤清小弓に還る。
1539
天文8
2 北条綱成有吉城に居る
1539
天文8
里見義弘安房上総の兵を以て有吉城を攻めたが城主綱成よく防いで追い返す
1548
天文17
浜村に諏訪神社建立。
1551
天文20
金親村金光院火災にかかり、原胤清20余町歩を寄付していまの地に移す。
1561
永禄4
4−21 里見氏兵を千葉方面に出し侵略す。正木時茂臼井・北小弓2城をとる。
1562
永禄5
原胤清北生実城を取り返す。
1566
永禄9
里見の武将正木時茂武州葛西に侵攻し、帰途曽我野にて小西城主原胤貞と
戦い胤貞敗れる。   (正木家譜)
1570
元亀1
北小弓城主原胤栄臼井城に移る。
1571
元亀2
北小弓城正木時茂に攻められ落城する。
1575
天正3
原胤栄柏崎宗徳禅寺を臼井に移し長谷山宗徳寺と号す。
1579
天正7
本行寺4世日門上人濃州安土における安土問答のおり殉教教札殺さる。
1590
天正18
7−11 原胤栄小田原合戦に敗れ臼井城に敗走する。
1590
天正18
8−1 浜村本行寺戦火に焼失す。
1590
天正18
12−6原胤栄臼井城を徳川勢に攻められ北小弓城に敗走のだ十文字原
にて敗死する。
1590
天正18
北小弓城落城。代官西郷孫九郎浜村附近を管理する。
1591
天正19
代官西郷弾正小弓橋戸に本門寺を開山、寛永の始め日善入りて満徳寺と
改称す。大正2年火災により焼失現在塩田に移転せり。
1620
元和6
高室金兵衛代官となる。
1622
元和8
高室金兵衛下総北生実、浜野、古市場、邑田、上総菊間、高島、八幡7ヶ村
の旱害の惨状を見て、その対策として草苅堰を造った。
1623
元和9
八木治朗右衛門代官となる。
1624
寛永1
7−19 大巌寺3世霊巌雄誉上人北生実に大覚寺を開山創建す。
1627
寛永4
森川重俊北生実に陣屋を築き1万石を領す。
1632
寛永9
2代将軍秀忠薨ずるや重俊之に殉ず。年49才。森川山重俊院に埋葬す。
重俊院は森川山重俊院出羽寺と号し森川氏の菩提寺なり。
1680
延宝8
北生実村宝珠山本満寺第8世日清上人禁制の不受不施を唱え罪科に処せ
られ、伊豆大島に流され延宝8年2月遷化す。
1692
元禄5
本行寺10世日逞上人元禄年禁制の不受不施を固守したので伊豆大島に
流されこの(10月)島にて卒す。
1694
元禄7
8−14 曽我野村と北小弓村の浦境争論あり。浜野村北小弓村浦境争論もあり。
また元禄年中浜野村村田村の浦境争論あり。
1702
元禄15
椎名村下郷泉谷出水出入裁許下る。   (高梨家文書)
1707
宝永4
北大弓村有吉村南大弓村秣場(まつば)訴訟事件あり。
1709
宝永6
浜野本行寺17世日専上人本行寺檀家を督して村西方海渚およそ2町7反を
開発せしむ。
1767
明和4
椎名村有吉村泉谷出水争論。これは遂に椎名村南生実村の争論となる。
1789
〜90
天明9
〜10
本行徳民と浜野村民との搭客航海の争い。 (日置碑文)
1794
寛政6
日置清兵衛村の東方の荒地を開墾4町歩を耕地となす。浜新田。
1819
文政2
12−1吉野重泰南生実八剱神社の祠官にして中務太夫と称し多くの
著書を残すもこの日死去す。房総古伝説5巻。房総名家伝12巻。本朝
神社考記2巻の著書あり。
1824
文政9
草刈堰水下7ヶ村で高室金兵衛の頌徳碑を建てる。(碑文)
1824
文政9
村田浦事件で、村田村名主篠崎庄八犠牲となる。 (村田区有文書)
1828
文政11
1ー 鈴木新右衛門浜野村西南海渚の荒地9町余開墾す。
1835
天保6
浜野村名主鈴木新兵衛天保新田を開発す。
1844
弘化1
村田村神明神社天明3年の水害にとり損傷せるもこの年神殿を造営する。
1868
明治1
日枝神社(有吉町字宮前)元山王社と称せしがこの年より改称。(千葉郡誌)
1869
明治2
生実藩主森川俊方版籍奉還生実藩知事となる。
1871明治47− 廃藩置県となり生実県となる。
1871明治411− 生実県廃され木更津県の管轄となる。
1873明治66−15千葉県の所轄となる。
1873
明治6
北生実に格物小学校、浜野に研思小学校を設く。
1873明治67−  11大区1小区に編入、11大区出張所の管轄になる。
1875明治812− 小区の改正により、同大区2小区となる。
1878明治11千葉市原郡役所の管理となる。
1879
明治12
1− 北生実村、南生実村、有吉村の戸長役場を北生実村に、浜野村、村田
村の戸長役場を浜野に置く。
1883
明治16
8−30 諏訪神社落雷のため焼失。
1884
明治17
4ー 北生実村、南生実村、有吉村、浜野村、村田村5ヶ村の聯(れん)合
戸長役場を北生実1642に置く。
1885
明治18
日馨上人本行寺32世権大僧上京都妙満寺249世顕本法華宗官長、学識
卓越当時宗門第1と称す。本行寺にてこの日遷化す。
1889
明治22
北生実、南生実、有吉、浜野、村田5ヶ村合併生実浜野村設立。
(千葉郡誌)
1894
明治27
郡農業会が設立され農事の改良奨励をなす。(県文化史年表)
1897
明治30
今井、曽我野、北生実、浜野、村田5区にて袖ヶ浦漁業組合設立。
1904
明治37
浜野、村田耕地整理なる。 (千葉市誌)
1909
明治42
生実学校創立 。東葛飾郡中山村より北生実柏崎台に移転。
1911
明治44
3−25 浜野駅開設。 (鉄道要覧)
1915
大正4
6−25 本満寺26世日垣大僧正この日入寂。年91才。
1918
大正7
生浜小学校校舎新築落成。
1920
大正9
4−27大正5年生浜小学校新築の議起るや講堂を寄付した篤志家の
浜野出身小西安兵衛死去す。年74才。
1922大正1111−1 生浜村と改称す。
1923
大正12
9−1 関東大震災。 千葉付近0.109m降起す。
1928
昭和3
10−30 町制施行により生浜町となる。戸数761、人口4,033
1930
昭和5
袖ヶ浦バス会社設立されバスの運転開始さる。
1932
昭和7
生浜町役場新築なる。
1945
昭和20
5− 戦災により浜野本行寺焼失す。
1947
昭和22
5−10生浜小学校の一部を借り、生浜中学校発足す。
1955
昭和30
2−11生浜町、椎名村、誉田村の3町村千葉市に同時合併。
1956
昭和31
5−31浜野、塩田町に水道敷設さる。
1964昭和3910-28千葉明徳高校登戸三丁目より南生実町へ移転してくる。
1965
昭和40
12−23生浜小学校焼失する。
1972
昭和47
4−1生浜小学校新設開校する。
1983昭和58生浜中学校(南生実町258)に移転す。
1984昭和594−1生浜東小学校創立(生実町1929)前生浜中学校跡
1986昭和6112−6生実町会館落成

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