生実村曽我野村用水論裁許裏書絵図1667(寛文7)年12月22日裁許   (生実町 錦織宏家所蔵)

絵図表

絵図裏
東端中央付近に大弓村(生実村)の家並、北西角に曽我野村の家並が描かれているが、この時この両村が生実池の水をめっぐて争って
いる。この争論に対して幕府裁判所ともいうべき評定所がその判断を示したのが本図である。生実池には墨線がくっきりと引かれ、
北側部分に「曽我野方 三千五百坪」と記される。裁判の結果、池の中に仕切りの土手を築き、曽我野分と生実分とに分割
されたのである。しかし池は生実村地内なので、右の処置のかわりに、曽我野村は池の地代として毎年米五石を生実村に支払うことなど
が決められた。このように、表に裁許(裁定)の内容を絵図の形で描き、裏に文章を付したものを「裁許裏書絵図」といい、
近世では用水争論や地境論など土地に関係した裁判に用いられた。このような裁許裏書絵図は、近世を通じて作成されたが、
本図は特に十七世紀中頃という早い時期に作成されたものであるため、後に様式が整備された段階とは
異なるいわば過渡的な性格を持っている.まず形式の上からは、「覚」と題されている点、幕府老中・寺社奉行・町奉行・勘定奉行が
署名捺印している点、宛名として「生実村百姓共」とされている点があげられる。今日多くみられる十八世記以降の裁許裏書には、
普通表題はつかず、同一国内の用水争論に老中が署名する例は少なく、また宛名も欠くのが普通である。
また本裏書には裁許内容のみが記されているが、これも後には原告・被告双方の主張内容、検使が現地で調査した内容を記した上で、
裁許内容を述べるという形に整えられていった。こういった裁許裏書絵図は、通常、その地域を支配する領主や幕府代官にではなく、
訴権を有する村に宛てる方式をとった。なお本図は、生実村内の各集落のうち新田・塩田は「大弓ノ内」とされるのに対し、
柏崎は独立村として描かれていること生実池の南、本満寺の向かい付近に生実池に連なる別の池が描かれているなど、
後世に失われた近世初頭の様子を伝えていることでも貴重な絵図である。

戻る