妙見社、稲荷神社、諏訪神社、
妙見社
字本丸の内で通称市左衛門山にあったが、明治元年廃社となった。
創建は北小弓城の築城、天分8年(1539)ごろ、千葉氏の家臣である
原氏の勧請によるものと考えられる。生実池の西側に「妙見下」の
小字名が残っている。寛永4年(1751)ごろ作成の北生実村絵図には
池の東側の北小弓城本丸南端に祠(ほこら)が描かれている。
稲荷神社
字旧宅邸の1341番地にあった。祭神は稲倉魂命、陰暦2月初午の日を
祭日とした。寛永4年(1627)生実藩主となった森川氏が陣屋構内に
勧請したという。明治2年12代藩主が御霊社の北隣に遷宮し、
社殿を造営し、東京の屋敷にあった稲倉魂命と阿遇突知命の2座を遷して
相殿とし、生実神社と改称した。同4年8月26日森川氏が東京は戻った際に、
またこの2座を戻したので社号も稲荷神社に普復旧した。同35年9月風害により
社殿が倒壊したので、同39年7月許可を得て御霊社の境内末社として遷宮し、
同43年10月1日生実神社(御霊社)へ合祀した。内宮と深川親和筆蹟の
「稲荷大明神」の扁額が生実神社社殿に納められている。
諏訪神社
字大明神前の2089番地にあった。祭神は建て御名方命で陰暦正月27日が
祭日であった。創建由緒は不詳であるが浜野諏訪神社と同じ勧請であるという
説がある。当社再建の棟札で天正18年(1590)11月のものには威光院運営が
別当になっている。威光院は明治に至るまで当社の別当寺であった。
当社は「だんまり神様」と俗称された。生実が南北に分村したころ、
南生実八剱神社の神興渡御の年番が北生実であるのに、南生実が前年に
続いて神興をだしたので北生実衆は当社で待伏せをして乱暴したため、
以来神興巡行は隔年となり。当社前を無言で通過することになったという。
明治43年2月1日付で御霊社に合祀。

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