如意山 本行寺

本行寺伽藍配置図(明治30年代)

日泰聖人の墓

日泰聖人法力の図
如意山本行寺は浜野町の北部の字如意山にあり、顕本法華宗である京都府の妙塔山妙満寺の
末寺で、宗祖奠定の十界勧請の大曼荼羅を本尊とする。文明元年(1469)日泰上人の開基で
ある。日泰は永亨4年(1432)京都の白川に生まれ、19歳で妙満寺10世日遵の弟子となり、
名を心了といった。のち円頓房心了院と称する。長禄元年(1457)師の日遵は、武蔵国品川に
妙蓮寺を創建した。日泰は師に従って妙蓮寺に住み、伊豆・相模地方の教化に努めた。
38歳のとき、下総浜村に渡り、「谷」の地にあった一廃寺を興して布教の道場とし、
如意山本行寺と称した。これが本行寺のはじまりである。やがて日泰は師の後を継ぎ、
妙蓮寺と本行寺を兼務したので、常に品川と浜村の間を便船によって往復していた。
そのころ、品川を発した。便船に酒井定隆と乗り合わせ、定隆は日泰の宗旨に感激し、遂に
帰依した。定隆は土気・東金の両城主となった長享2年(1488)、日泰を土気へ招き、本寿寺
を建立し、さらに領内の寺院をことごとく日泰の宗派に改宗させた。世にこれを{七里法華」と
いい、浜村から片貝村の間の改宗を指し、本行寺はその根本道場であるという。そして、
土気城主酒井氏が大壇那となって、七堂伽藍は完備したという。
日泰は、文明5年(14739)小弓に妙印寺、本満寺を建立し、あるいは遍田の妙本寺を開基し、
文明13年には定隆の助力を得て、本山妙満寺の開祖日什の創建した鎌倉の本興寺を再建
した。明応5年(1496)頃、京都へのぼり、権大僧都に昇格しており、本山妙満寺の16世を嗣
いでいる。同7年に本行寺へ帰り、永正3年(1506)正月19日、75歳にして遷化した。
遺命によって、本行寺の北方の海岸(字、本浜本)の小松林に葬られた。
永正6年(1506)11月、連歌師柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は小弓城主原胤隆に招か
れて来遊し、本行寺を旅宿とし、「声遠し月や汐干の浜千鳥」と詠じている。
永禄から天正の戦国時代末期には、房総の武田氏、里見氏、相模の北条氏などの軍船・軍馬
の往来が繁く、浜村も騒然とした。しかし本行寺は、諸将の制札や不入状によって庇護
されていた。やがて、天正18年(1590)8月1日、兵火のため諸堂は灰燼に帰してしまった。
天正19年11月、徳川氏により朱印地10石をうけた。その後、現在の地に移り、諸堂の再建が
ほぼ終わるのは江戸時代の中頃であった。宝永3年(1706)頃の本行寺境内は東西120間、
南北145間で門前百姓23軒(天保10年=1839には30軒)、衆徒6坊、末寺7か寺であった。
昭和20年5月8日戦禍により、本堂、奉師堂、書院、庫裏など一山を焼失した。戦後、
昭和27年11月仮本堂、次いで庫裏を再建した。56年本堂を建立した。
現在の住職は朝倉俊幸氏41世である。
日泰上人と七里法華について
日泰上人は本行寺を開いたお坊さんです。上人は永享4年(1432)に京都で生まれ、妙満寺
で仏教を勉強して関東の方で教えを広めました。主に品川のお寺と本行寺を行き来しながら
教えを広めていましたが、ある時品川から上人が乗った船が嵐にあってしまいます。あわや船が
沈没し、乗っていた人々はみんな死んでしまうのか、という時に上人が船の先端に立ち、大きな
声でお経を唱えたそうです。すると不思議なことに嵐はピタリと静まり、船は無事に浜野の港に
着いたそうです。その船にたまたま一諸に乗っていたのが、酒井定隆という武士でした。
定隆は上人のお経の力にとても感動し、「もし私が一国一城の殿様にになった時には、自分
の領地はすべて日泰上人の教えを信ずることにします。」と約束をして去って行きました。
そしてしばらくたった長享二年(1488)酒井定隆は、土気城の殿様になり、約束どおり自分
の領地すべてを日泰上人の教えにするという命令を出しました。定隆の領地がちょうど七里
四方の広さで、それを法華経の教え
に改めたので、この出来事を「七里法華」といいます。

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千葉市南部の歴史より